悪いタッチは、人にもしたくなる。より無抵抗なものに。〜性の話から社会へ

書ききれるかはわからないけど、書き始めてみよう。
 いくつもネタがあるんだけど、我慢できないところからいってみよう。やってみよう。
 詩は少し書き残せた。酔っているけど、できるだけしっかり書きたい。
 あまりに思うように寝られず、食べられずのこの頃で、
 今日はやけ食い、やけのみでした。
 


 ボージョレ―ヌ―ヴォとカマンベールチーズ。
 フランス。



最近でもっとも大きなダメージは、テロ。
 テロそのものでなくて、それをきっかけにあからさまに露出した差別。
 国内外で、ずっとつづいている闘争に反応しないのに、
 なぜ今更、なぜテロごときで大騒ぎするのか。わからない。
 明日は我が身だという覚悟ぐらい、今のご時世、当たり前だろう。
 と酔っぱらっているのをいいことに言ってしまいたいくらいだ。



知人が巻き込まれたり、ゆかりのある場所であったら特別な思いもあるでしょう。
 個人個人の思いはいいのです。
 (ただFBから提供されたアイコンには呆然とした。
  FBやめればいいのに私。といつも思ってはいるのだが踏み切れず。)
 ともかく、気候だとかなんだとかのせいもあったと思うけど、
 渦巻いてる悲しみやら疑いやら憎悪やらの気配が覆いかぶさるようで
 もやもやとふさぎ込んでいました。

…長くなりがちなので、さっそく思い出したことを書きます。



サロン月草では、何度も「子どもに伝える性」について話しあいました。
 実際伝えるにあたってはいくつかポイントがあるのですが、
 幼い子に伝えるようにお話ししている大原則が2つあります。


 ・人が嫌だということはしない。いやといった人の言うことが優先される。
  いやだといっていい。

 ・プライベートなことは人前ではしない。見せない。言わない。


これらは、被害者になることを予防するためにも有効なことです。
 がそれ以前に、人間関係を築くうえでの基本になります。


子どもと読める良書に「いいタッチ、わるいタッチ」という絵本があります。
 非常に簡潔に、具体的に、プライベートゾーンのことや、
 「いいタッチ」とはどういうものか、タッチされたときどんな気持ちになるか。
 また「悪いタッチ」はどうか。ということが書かれています。



性的なタッチだけではなく、殴ったりけったり、いやだというのにやめないことも
 悪いタッチとして表現されていて、友達とのふれあい全般について子どもと話し合うこともできます。


その中で、私がぞわぞわした一文は




「悪いタッチ」は「人にもしたくなる」





振り返れば、見渡せばその通りだと。ある種感動しました。
 ストレスのはけ口、虐待や性被害の連鎖、やられたらやり返したくなる
 それは形を変えたものであっても、
 何かより無抵抗なものに自分がされたことをぶつけたい。
 そんな気持ちになるタッチは、悪いタッチだったのだと。
 なんという分かりやすさ。




個人的な例ではこんなものもそうなのかもしれません。
 私は職場でいろいろあって鬱になり退職。
 と同時にリハビリを兼ねて結婚準備をすることになりました。
 ご縁があって、サンドブラストといって、ガラスを砂の圧力で削って模様を掘り出す
 技術で、引き出物を大量生産することになりました。
 作業の半分は、ひたすら切ること。
 無抵抗な紙テープにひたすら刃を入れていきます。
 刃を入れてはめくり、刃を入れてはめくり。
 最近類似する体験をお持ちの方と話して、当時の私には必要な時間だったんじゃないかと思ったりすることがあります。




無抵抗な何かに、自分の負った傷をうつすことで、ある種の癒しの時間になっていたような気もするのです。


これは台所仕事でもいいでしょう。
 ざわつく育児の合間に、調理に没頭してちょっとすっきりしたりするのは、
 包丁で無抵抗な野菜たちを切り刻む動作があるからかもしれません。
 (こういう発散例は野口整体の本でも紹介されていました。)


 
短絡的に書きますが、
 兵士がより無抵抗な女性にレイプをしないでいられなくなる極限状況があること。
 家の外で受けた扱い、ストレスをDVとして発散させる。
 老若男女関わらず、多かれ少なかれあるでしょう。


 

つい先日、山のようなぬいぐるみたちの「お母さん役」である娘は
 「歯磨きしてクチュクチュしないと、先に寝ちゃうからね!」
 と叫んでいました。
 いつものようにリアルな口調に一瞬吹き出しましたが、
 ままごとも、それ自体が癒しであるように見えます。
 彼女が叫んだ言葉=私がいつしか言った言葉によって、彼女を怖がらせた何かがあったのだと反省しました。



彼女もまた、ぬいぐるみという無抵抗なものに、自分の不安をぶつけたのだと思います。



本当に、言葉がけ一つ一つ、接し方一つ一つが、子ども一人の心を作っていくのだと
 身の引き締まり、恐ろしい気持ちにもなります。
 でもまあ、私も一人の人間なので、間違いもするし、イラつくし、不条理に怒鳴りもします。
 そんなときはできるかぎりですが、落ち着いてから謝り、




 「あなたたちは悪くない。大きな声を出すのはお母さんの問題だ。」





というようにしています。(本当に子どもが原因のときは言いませんが。。)
 数年前、このように言い聞かせるようになってからの息子の変化は目を見張るものがありました。



先日のサロン月草の参加者のある方は、
 「私自身が、小さいときに親にそう言ってほしかった!」とその場で気づかれました。
 親の顔色を見て育った人は多いのではないでしょうか。
 どうしても後悔するようなことをしてしまったら、「あなたのせいじゃないよ」
 とだけ伝えてみてもいいと思います。



もちろん、性格にもよりますが。
 「私のせいで」親の気分が変わると思っている子がいたら、
 そして親に穏やかにいてほしいということを優先にしてしまったら、
 なにも「その人らしい」ことにふみだせません。
 いつまでも、親の求める、親が安心する生き方、道を選び続けるのではないでしょうか。
 「親を亡くしたあなたへ」という本に出てくる人たちも私自身も、
 いかに親に気を遣って人生を選んできたかということを親の死後にやっと気づきます。



親が死んでいなくても、子どもが彼らの人生を歩んでいけるようにどう見守っていくか。
 「いかに暴力を振るわないかということは、いかに愛するかということを問われている」
 ということを目にしました。
 来年になりそうな、次回月草のテーマ「暴力」では、
 お集りの方からのお話を受けながら、そのあたりを深めていくことになるのかなと思います。


あちこち行きましたが、、
パートナーと、家庭と、友人たちと、
 コミュニティ、会社、民族、国家、自然とも…いいタッチで満たされますよう。