死を受容する〜妊娠報告〜8/30月草補足
この夏の出来事、感じたこと、考えたこと、、
残したいことはあふれているのに、なかなか書くにいたれなかった。
今も胸がきゅっとして、いい緊張の中やっとPCにむかっている。
どきどきしてる。
前回の記事の後のことを書くのに、このことをはっきりとしておかなくてはならない。
そのタイミングを待っていた。
私、今妊娠しています。
去年の1月の予言の通り、来てくれました。
次の子を迎えるために、去年から引き続き今年の前半の多くのチャレンジがあった。
(予言?ブログ)http://d.hatena.ne.jp/halcyon_1983/201401
一人目も二人目も、同じように妊娠直後から公にしていたけれど、
今回の妊娠は、4月の件もあり、いろんな可能性が頭をよぎった。
(超初期流産したらしいことhttp://d.hatena.ne.jp/halcyon_1983/20150430/1430330045)
この一年、流産や死産の経験を分かちあったこともあり、
無事生まれることが奇跡だという感覚がより強くなったこともある。
今日、私がここにやっと何かを残そうと思えたのは、メールをくださった方の存在だ。
今年に入ってから、ブログをみてくださった方や「こどもとあゆむ会」を知った方から連絡をいただくようになった。
やっと、地域で何か役に立てるかもしれないと思わせていただいた出来事。
産後直後の不安、死産された後のお気持ちを勇気をもってお知らせくださいました。
自分が書いたものや、してきたことが届いたこと、うれしいです。
正直、まだ予定日も出ていないのです。
そういうタイミングで何を伝えたいのだろうと。
4人に一人は流産するといわれている。
だから安定期に入るくらいに公にしてもいいかな。と
私の中にもそういう気持ちがないわけではない。
でもそれは、絶対に許されないのです。
少なくとも私の中にいる人はゆるしてくれない。
私もそれまで待っていられない。
今生きてる、この命の衝動をあらわさずにいられない。
どんなタイミングだろうと死ぬ命はあるのです。
そんな当たり前のこと、
もしまわりをふりまわすことがあったとしても
そんなことすら受容できない人に気を使って
いま生きてる人のことを隠したり、遠慮する必要なんかない。
周囲に言うことで、何かあったときに自分が傷つくこともある。
でもそれは、その人が身につけるべき、死を受け止める練習なんだと思う。
初期の妊娠を話題にできない風潮があるとしたら、
マタハラや、仕事面での事情もあるでしょうが
一つには、その社会が死を受け入れる器をもっていないということ。
死を受け止めてくれる人がいないということ。
死を分かちあう覚悟がないということ。
流産、死産、身近な人の死別などは、話す人を選びます。
同じような境遇でも、共感しあえるかどうかはまた別の問題です。
話せる人を見極められないままずっと抱え続ける人も多いと思います。
(この点も、前回の月草で実感しました。)
「お産」よりもずっとずっとたくさん
老若男女すべての人のそばにあり続けるのが「死」です。
でも語られるのは、多くない。
小さいころから隔離され、知らないからこそ恐れ、あるいは
どう対処していいかわからない。
当然のことながらフォローも少ない。
前回「死別」がテーマの月草で参考図書の紹介後
たとえば「いじめによる自殺」によって残された子どもたちへのフォローや
働きかけがなされているのだろうか。という話題がのぼりました。
子ども時代の死別は、周りの大人が口を閉ざしている分なおさらに解決されないまま
持ち越されることが多いと思います。
死別のフォローにかけるのは、流産もおなじです。
死を当たり前に語り合える土壌をつくっていきたい。
そう思います。
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次回8/30月草 補足(詳細7/26ブログへ)
・乳飲み子以外の子は預けていただく方が集中できるかと思います。
・お子さんがいらっしゃらない方、プレママさんなど大人の参加も受け付けます。
その場合次に設定する「親子参加の会」は欠席でも構いません。
・子どもさんの幼稚園が同じ方の申し込みがあります。
同じ年頃、環境で生活する子が一緒に同じ内容を見聞きすることで
お互いの安心感にもつながるかなと思います。お誘いあわせの上どうぞ。