死体を身近におく

小さい時には、虫を愛でては死なせ、
机の引き出しの中の雑誌付録の紙製の「家」に死体を寝かせてずっと過ごした。
息子が生まれてから飼ったハムスターの死体は引っ越しのときまで
茶筒に入れてしばらく巣箱の横に置いていた。
おなかにいた子が出てきてからは、容器に入れて冷蔵庫におき、
庭に埋める「とき」がきて、自分のgo signがでるのを待った。
 


先日、家族の死体の「世話」をしながら生活したり、
 ミイラとなった先祖とたびたび面会する民族の存在を知って大いに共感した。
 死者をそばにおく。ということだけで、癒されるものがあり、
 癒す時間をゆるされるような気持ちになる。
 通夜での添い寝や葬式も日本ではあっという間だが
 残されたもののためなのははっきりしている。
 「葬式は残されたもののためのものだ」とよく言っていた父は、
 近親の誰の葬儀にも出ずに先に逝った。
 たぶん生きてほかの人を見届けていたら、耐えられなかったんじゃないかと思う。



あまり言葉に頓着しない人から「今回は大丈夫か。(そだっているか。)」というようなことを言われた。
 「は」という副助詞に、私はざわついた。
 去年私に宿った子は確かに命をまっとうした。
 彼女がおなかにいる間、私を動かして、出会わせてくれたたくさんの人がいる。
 そして十分私自身の準備が整ってから上手にきれいに出てきてくれた。
 それを見届けた自分や、一緒に手放し埋めてくれた子どもたちの行為は半端なものではない。
 私は、そう感じている。



「今回 も 大丈夫。」それを祈る。
 おそらく、何が起きてもそれはきっと、大丈夫。なんだと思う。
 その人のその時に必要なことなのだ。



人によって経験もそのとらえ方、感じ方、思い、みんな違う。
 だから難しいけれど、話題にするな、触れるなということではない。
 触れるなら触れるなりに、その人がどう感じているのかを尊重して聞いたうえで、
 発言したいと思う。
 これはサロン月草での参加者みなさんの基本姿勢でもある。