五行詩 口紅・蝶 他FBへの書き込み(2015/11〜2016/2)一部転載
2015/11/30
我が家は、わたしにとっては計画当初から舞台。
足を鳴らせ、必要に応じて人も入れて、環境もいじれることの方が大事だった。
夫は何に使うんだと怪訝そうだったけど、姿見は必須だった。笑
何より、昨日おとといのブログで書いたように、自分が自分でいられるスケールっていうのはやはりあるらしい。
夫や子どものパワーもあわせて、小さな住まいではいられなかった残念な時代もあった。
シェア記事ごもっとも。
コンパクトな生活、エネルギーも食料も自立した暮らしは
むしろ憧れであり、これからの時代はそっちだって、頭では思ってる。
生活環境は小さくていいのも、一人暮らしの時の超ミニマムな生活を思えばよくわかる。
田舎で畑をもって…みたいに描いていた時期もあったけど、
それは私の仕事じゃない。
おいしい力のある食べ物を提供してくれる素敵なひとは周りにちゃんといらっしゃった。
新しい家族の近くで思いがけず与えられた土地で、
舞台やイベント、いろんなところへ行きやすく
騒音を気にせず大声を出しドラムをたたける贅沢は、
たぶん本心が望んでいたものだった。
これからの時代の生活スタイルの「あるべき姿」と照らして
抱える矛盾や葛藤もそのままに今は受け入れているつもり。。
ふう。とにかく底なしに貪欲なので、、時代に合わない自分のキャパもゆるしてみようと。
当面私は私の仕事に集中することを優先に。
2015/12/2
芸工つながりシェアその3>>
懐かしのギャラリー矢田にて、12/4のダンスイベントと6日までの展示があるそうです。ご案内まで。
先日、知的障害をもつ方のお母さんが、
ホームレスの一定数が障害を持つ方らしいということを気にされていました。
胎内での判定で障害があるとわかり堕胎する方も現実に相当数いらっしゃいます。
もやもやしたり悔しい気持ちでまとまらないのですが、、
障害と言われるものの有無にかかわらず、
ただその人がその人らしく自分を表現して生きていくことができることをいつも祈っています。
そういう場を作りたいと思ってる。
2015/12/11
今夜、田中泯さんにつられて「たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」をみた。
思えば毎年「男はつらいよ」ではじまっていた。山田洋次監督でそだったのだな〜。としみじみ。
茶碗を漬物ですすぐ所作に父を思い出し。古風な人でした。
我が家必読書指定の一つは親鸞が主人公の「出家とその弟子」…
my root & my favorite & 「お姉ちゃん宣言」卒乳のこと、、改めて書きたいです。
写真はモミジの普門寺にて。明星ライブラリーさんの企画展、音楽朗読に伺いました。久しぶりの夜更かし、おやすみなさい。
2015/12/14
くされ縁の 笑 幼なじみ。実家徒歩1分、同じ生まれ月。八戸でアートシーンをひっぱってます!この歳になってなお、刺激とご縁をくれていること、奇跡の巡り合わせに感謝。
東三河で私は何を仕掛けるのか。
アートの生態系、、その土壌をつくる?サロン月草はそのような側面があるのかもしれない。
いのち、愛、多様性、寛容。
それぞれが自分の中のそれに気づくこと。たとえ闇に埋もれていても。
あと違和感ありつつも、芸術工学部でデザインに触れたことは貴重なことだったと。
違和感というか、芸術工学部への期待としてもっと人文系、看護系に首を突っ込みたかったと。今になって入学当初はそんな目論見だったと思い出した。
と、徒然書いてる間に、こどもたち、ティッシュとトイレットペーパーをビニル外して収納してくれました💦 何にもしない母っていいかも。
2015/12/16
五行詩 口紅
口紅に勇気をもらう歳になったらしい
母の面影を鏡にみる
歳をとるとはより自分らしくなることと
死ぬことばかり思っていたのに
こんなにも 大人は楽しい
2015/12/23
五行詩 蝶
変わり続ける自分
そのものが作品だ。
何度でも蛹になり蝶になれる。
ドロドロとうずまきながら
明日にはまたいくらでも変われるんだ。
2016/2/3
立春を前に書いておく。
今年の書き初めは、やさしく。と書いた。かわらず自分を掘り下げることを続けるんだと思う。体は起きれなかったが頭は休まなかった。むしろ忙しかった。少しずつ出していこう。
去年のわずかだが、貴重なダンス体験。中嶋夏さん、しげやん、むかいちえさん。
そのなかで、私がずっと封印していた「人に触れる」ということを、支え支えられることを経験させていただいた。なぜ封印していたかはまた別の機会にはっきりしておきたい。
特に即興、コンタクトインプロでは、自分の戸惑いの大きさにびっくりした。それは、主張と協調という言葉を借りるなら、主張の弱さ、その奥には人を信頼してない自分というのを強烈に感じさせられたからじゃないか。
そして、ふと日ごろの子どもたちとの触れあい全てが、コンタクトインプロみたいだと気づいた。
特に娘は体現していて、生まれたときから抱いた気がしないほど、人の体のどこにいても自由に動く人で手をやいていたが、その全てがダンスにみえてきた。
私は獣医志望だった。動物が好きだ。
だからむしろ、新生児くらい小さい人の方があくまで主観的にだが、トクイだと思う。通じ合える感じがする。
イライラしないとか、疲れないという意味ではなくて、ひたすら触れて感じることが、それだけが求められていることが心地いいのだ。
育児だけでなく、それはセッ クスもお産も、そして死をみとるときも同じように顕著なシュチュエーションになりうるんじゃないかと思う。
ダンスへの興味が、私の重要なテーマを結んでくれたような感激がここ一カ月ほどの間にあった。
しげやんは、何か強要されたり、無様な格好や表情のとき、その人は踊っていないとおっしゃった。
世の中がどう動こうとも、私は私のダンスを踊りきって死にたい。
2016/2/28
そろそろ溜め込んで反芻し続けているものを出したい雰囲気になってきてますが、要は、パソコンに座るのが寒いのです。もうしばらく無難な日記に。。
久しぶりに公の場。三寒四温、ポカポカ陽気の中、園一年の集大成的おまつりへ。
準備期間のがんばりを感じながら迎えた今年は、きょとんとしながらついて行くような去年とは違い、自分の役割を果たそうとする姿や自信に触れられました。
園の子どもたちの手づくりのものから好きなもの5つを買い物する際、内4つは妹のものという、なんというかナチュラルに優しい人です。
(自分のために選んだ泥だんごは更に磨いてるうちに壊れてしまい、自分ではじめから作り直したものを持ち帰り笑顔。因みに、選んだもの達が私が気になってたものと一緒!)
私も人前に出れたし、行事の充実感でかなり動け、疲れはしたけど心は充電され、久しぶりに息子をひざに招くことができた。ぐずりが収まり思わず笑っちゃう、みたいな態度に、甘えることをガマンし続けてたんだと改めて気付かされた日になりました。
無論、その姿をみた妹があれこれ気を引かんとして(控えめながら)やらかしてくれましたが。苦笑
蛇足ですが、娘は先日までピースサインは「2歳」を表していると思っていたらしく、写真を撮る真似をしながら私に「何才?」と聞き年齢を指で示すよう要求してきました。