この世を貪り食う

なにやらごちゃごちゃとしつつ、ひとつの決断をした。
 今年いっぱいで、こどもとあゆむ会のメインスタッフを卒業します。
 独自に走っていきたい気持ちをそのままに。信じることを育てるために。
 私はたぶんずいぶん前から「自然なお産」とか「自然な育児」とか「健康」とか興味がないのです。
 一つ一つの決断は、気持ちがいいか、体が納得するかっていうことで、
 人のノウハウや経験を見聞きすることに全く興味がない。
 それに気づきました。
 そもそも、子どもに興味がない。笑
 もちろんわが子は愛おしいし、「性・いのちのはなし」は未来の親・大人である子どもに届けたいし
 細かな選択が「自然」っていうものにより近いほうへ向きやすいかもしれない。
 でもそれは誰かに教えてもらうことじゃない。


あぁ、今年はあらゆる場所でたくさん桜を見た。
 雨で散ってしまうのではと、折々に出かけた先で意外と残っていたりした。
 なににひかれるのか。はかなさだけでない。
 たくわえた力を一気に開花させ、潔く散ると同時に新芽を開かせる。



 いのちがけ。



いつも文を書くときは遺書だと思っている。
 今の自分を出し切ること。
 日々の刺激や湧き上がるものが統合されて得た過程を刻んでいる。



学生期にまとめた小さな詩画写真集を「過程」と名づけてとってある。
 今日4/12の読み語りステージ、5/5のハルシオン祭で、うたうか何か披露しようとするけれど
 どうも今の私は、詩の表現ではないみたい。
 昨年あたりから、本音の自分を出し始めたブログ記事がまさに
 私という人生の「過程」。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


各回のサロン月草、友人との会話、新しい出会い
 目まぐるしいほどのヒントをあびながらも、もう一押しないと
 これを書かせてもらえなかった。
 4/2 映画「あん」の原作者ドリアン助川さんと、監督河瀬直美さんの対談に赴き、買ってきた小説「あん」
 このタイミングで手に取ったジブリ映画「かぐや姫の物語




 この世を感じるため、味わうために生まれてきた
 

 鳥 虫 けもの 草 木 花 四季 月


 父の名と同じ「義明」(それぞれ登場人物・プロデューサーの名だった!)



びっくりするほどの共通項。特に父の名が出てきたときはぞくっとした。
 さらに双方に描かれた、鳥を鳥かごから放す描写は、
 若かりし父が書いた詩の内容にも重なり、月並みのエピソードといえばそのとおりだけど
 今の私へのメッセージとしか思えない縁を感じてしまった。
 河瀬直美さん目当てで伺った対談で、想像通りのやわらかな語り口、たたずまいをかんじられ本当にいってよかった。
 それに加えて本を読み、ドリアンさんの活動を少し知って(若者のタブーにされがちな相談にのる、詩とロックのステージなど)
 通じるものがある気がしてお会いしたい気持ちになった。


5/5のハルシオン祭が屋外でなくてはありえない、と感じていた理由はこれだったんだな。とふと思う。
 風を日を大地を感じられないところでは、満たされない。
 動物だもの。
 与えられた自分のからだも、愛する人もしっかり味わいたい。
 目の前の人をだきしめる、ハグを自分に許してこなかった。
 男女誰彼かまわず惚れっぽい自分に戸惑っていたから。笑
 でもこのごろちょこちょこと、人の体温、感触を確かめるようになったら、惚れっぽい妄想癖な私が顔を出して
 それはそれで気持ちが潤うことに気づいた。笑
 小さいとき私こんな風に遊んでたなって。


 
うつの回復期に書き溜めたものの中に、自分を「雑食」と表現した詩があった。
 何でも食べる。食べ物も、知識も、遺伝子も。
 この時期の自分の詩を読み返して、驚いてふるえた。そこにちゃんと自分がいた。
 そぎ落とされた私。ちゃんとここにいたじゃん私。
 失恋やうつから這い上がるときに、出る詩っちゅうもんは、すごい。笑
 いま、詩の気分じゃないっていうことは、ちゃんと生きて燃やせてるのかもとも思う。
 

雑食。付け足すなら、なにより自分自身をたっぷり味わうこと。
 私は私にしか生きられない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私の核になっているのは、人権、生死、命の尊厳、本能…
 それを語るのに性が切り離せないから、そこに関心を寄せている。
 死も性も、タブーとなり、
 他人事よそ事です、みたいな顔の人がたくさんいて



 無事に生まれるのが当たり前
 生きてあることが当たり前



そんな感覚が、不幸のもとのように感じられる。
 ほんの思い付きだけど、書いちゃおう。



無事に生まれることも、今生きていることも当たり前じゃない。
 さんまさんの「生きてるだけで丸儲け!」って笑い事じゃなくて本当だと思う。




4/5のサロン月草は2度目のshort stay baby を話す会でした。
 
 そこであらためて自分の中で確認したのは、
 いのちが短くても長くても、
 宿り生まれ、その子その人の人生を全うして生き、死んでいく。
 そのストーリーになんの変りもない。
 だれもが通る道なのだということ。



その子その人の人生に意味を付けるのは、その人を愛した人たちかもしれない。
 当の本人は、燃えるだけ燃えて、その人なりに味わい切ったら、去るだけ。かえるだけ。
 その存在の意味なんて、考える方がナンセンスかもしれない。
 しいて言うなら、その人「が」愛した人にのこる様々な感情。
 愛しさも、憤りも、葛藤も、感謝も、悲しみも
 山ほどの味わうべき感情を残してくれている、バトンでつなげてくれている、のかもしれない。



たくさんたくさん味わおう。
 今の自分の行きついたところ。



さあ、今日はステージ。
 テーマは「風を地を味わう」になりました。
 タラートチャオ・ベジフェスのステージの話が降ってきたのが、満月皆既月食、マヤ歴のはじめの日の4/4だった。
 急だったけれど何を読もうかと考える中で、またすてきな絵本との出会いもありました。機会をくださって感謝!
 もうほんと、びっくりしつづけの日々です。
 明日死んでもラッキー!と思えちゃう自分がこわい。
 選挙は忘れずに。


息子が夢の中、声出して笑ってる。笑
 さあ寝よう。