おん☆なごや&映画「祈り」〜人生むだなし〜

息子は新城の和太鼓集団「志多ら」の大ファンで、先日公演に夫と行ってきた後
 ず〜〜〜〜っと、だまってにこにこしていた。
 どうだった?ときいても黙ってにこにこ。
 まるで一言でも漏らしてしまったら全部がうそになってしまうような
 全身で感じとってきた宝物を大事に抱えているような姿だった。




いつからかわからないけれど、前回の記事にもあるように怒涛のごとく
 私の過去がどんどん数珠つなぎに連なって、目の前に突き付けられる体験が続いている。
 どんな些細なこと、偶然と思われるようなこと、迷惑に感じたことさえも
 何一つ無駄な経験はなかったんだ。
 そして、寸分たがわぬタイミングで、出会うべき人に会い、
 出会うべき言葉に出会っている。
 恐ろしいほど、私はこの世界に守られて、与えられて生きているって感じてしまう。
 自分で言うのもなんだけど、この早熟度(?なのか?)から、もうほんとに明日死んでしまうかもしれない、という気持ちもますます強くなっている。笑
 でもでも、まだまだこの世を、自分を味わい尽くしたい。
 そんなこの頃だ。





息子と同じように、もうここで書き終えて寝てしまいたいけれど、
 なんというかな。
 手帳を真っ黒にするほどに吐き出した後に残る何かを無駄にしないように
 整理と記録、次へのステップのために、手放すために書いてみる。


一度中断して、書き始めから2日たってしまっているので
 今はまたちがうことが体をめぐっているのだけれど、、まずこの記事をリリースしよう。


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性 


それは、私が幼いころから両親の影響もありとても身近な関心ごとだった。
 幸運にもそれは私の中でポジティブなイメージとともにあり、
 それは生きることそのものに対する恐怖心を少なくしてくれていたのだと思う。
 私には、いのち、性を人に伝えられる土台がある。と
 つい最近、劇的に自分を信じられるようになった。
 どんな自分も晒せるようになった。
 これから起こることも、きっと晒せる。
 笑って、伝えられる。
 そういう自分にやっとなってきてるんだな〜。




おん☆なごや  自分ダイスキ・こころの裸祭り
http://kokucheese.com/event/index/238593/ イベント


 行ってきました。
 たくさん「その筋」で有名な方が大集結していて、直接お会いできたのが一番の収穫。
 レポは「おん☆なごや」で検索すればたくさんの方が書いていらっしゃいます。

 とっても楽しかった!
 コスプレちょっと悩んでいたけれど、
 「能書きが多い」と自分の体から文句つけられていたので、あまりコンセプトとか気負わずに
 ただ「着たい」と思える格好で単身出かけられた。
 それだけでも大きな喜びだった。
 そうそう、私こうよ!って。


いくらでも書いていられるけれど、端的に。
 自分の気づきは主に二つ。




「父を殺したのは自分だ」って思っていた。
 それを言ってしまえるようになった。
 それは思春期特有の「親殺し」のだったと言えばそうかもしれないけれど
 どこかで、人生の中でドカンと悲劇が起きて、悲劇のヒロインになっていたかった。
 失恋で落ち込んだ時期もあったけれど、
 もっともっと究極に落ちてみたかった。
 そういう自分を見てみたかったんだな。私は。




だから、父が急死したときに、「私が殺したんだ」ってすぐ思った。
 叶ったんだ!って思った。
 どうしようもなく悲しくて、今でも彼が楽しみにしていた孫を抱いてもらえないことを思うと涙がこみあげてきて
 もっともっと話したかったって、ああ、久しぶりに今そんな涙が出てくるけれど
 去年から何度か取り上げている「Death Benefits」〜親の死がもたらす恩恵 ってことをどこかで感じていた。
 新しい世界になる。
 直後はどん底でしかなかったけれど、時がたつにつれてどんどん新しい力やご縁がわいてきた。



それをイベントの後、一緒にいた人に話してしまったら
 もう、あとはこの1か月さんざん「親に着せられたもの脱ぐんだ」
 って「人間ぬぎすてる」っていってきたのに
 上辺だけじゃなくて、心の底から感謝の気持ちしか湧いてこなくなった。
 良くも悪くも、やっぱり私はこの両親を選んできたんだな。って。
 だってこんなにも、無駄なことひとつなく、今日の私につながってる。
 明日のワクワクにつながってる。
 去年から最近まで自分の中から「手放して脱ぎ去る」ものことを探していたけれど
 その先に見えてきた「ありのままの私」の中にこそ、
 父から譲り受けたものがたくさんたくさんあって
 それもひっくるめて、いま、自分を愛そうって思えます。




もう一つは、自分の中の男性性と女性性のバランス。
 まったくひょんなことから、夫と両性愛ってそんなに特別なことではないという話になった。
 両性愛については、フロイトなんかも、
 「あらゆる人間は誰でも、人生のうちのある時期において両性愛者になりうる可能性を持っている」といったそうな。
 そして、私自身が、そういう面があるんじゃないかな。とはたと気が付いたのだ。
 あ〜〜〜!そうかぁ。って。
 ちょっとまだ自分で掘り下げ切れていないけれど、
 掘り下げていくすべての段階を受け入れる準備が自分にはあるなぁ。
 ということは感じています。
 


どうしても解せなかった、幼少期からのオトコギライ。
 とかとか、またなぞが解けていく予感。


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そんな自分の発見にふむふむとしつつ、みた映画「祈り」

http://www.inori-2012.sakura.ne.jp/  公式HP


なんというか、頭では正直、はいはい、うんうん、そんなこともあるかもね〜。
 っていう感じなの。映画中に出てくるあれこれの真偽はどうでもいい。
 でも、映し出されていく話題や、各科学者が実証してきたことやなんやかんやは、
 高校〜大学〜その後いろんなタイミングで「自分が」触れてきたことばかりだった。
 過去の私のそのときそのときのひらめき・直感が「これ」といって差し出してきたものがどっさり詰まっていた。
 そのことが衝撃的で、自分が追究していきたいことが宇宙規模でも、遺伝子レベルでもなんでもやっぱり「いのち」なんだな。
 ってすごく感じてしまった。
 そしてそれって、それこそ、父が追い求めていたことと同じじゃん!って話にもなるのだけど。それはまた。



学生期もっとも自由を謳歌して、ずっとガハハ笑い、したくないことはしない。
 好きな格好をする。好きに声を出す。
 ってな感じだった高校時代の私の合言葉は、「笑いは世界を救う!」
 保健の授業で、グループごとに1時間の授業を受け持ったことがあり、そのときのテーマはずばり「笑い」
 笑いが免疫力アップを助けるよ〜みたいな。


まさに映画の冒頭がこれだった。
 笑いポジティブな思考が、遺伝子のある部分を ON にする。


こじつけと言われたらそうなんだけど、絵的にも自分の見覚えのあるものがたくさん出てきて不思議な気持ちだった。

 
大学時代 建築、和紙、シルクスクリーン、音楽、まち…いろいろな課題に取り組む中で 
 提出したコンセプトを一部並べてみる。

公共&交響      →(映画中:)自他の境がない、全体をとらえる世界観
波紋 音の美術館   →ポジティブ、ネガティブな思考の波が体内から放出されて他に影響する
スピリチュアル    →精神的なこと
和紙の喪服「再生」DNAモチーフ→遺伝子を「書いた」存在(サムシンググレイト)


腹帯に宇宙モチーフ  →地球上の一人一人は、体の一つ一つの細胞のようなもの


ちょっと話がそれそうなのでこのくらいに。
 他にも、最近ふっとひらめいた言葉(初女さんの講演に行く前にメモしたindevisualとか)や
 大学時代に教授とふらっと立ち寄ったチベット仏教の寺院の話が出てきたりとか(上映後にひきとめられて…)
 そもそも「祈るってことを意識するようになった。」といつかの記事で書いていた。
 こうぞのアクセサリーも映画中でも強調されたように、個人的な「願い」ではなく
 「神も乗れる意志」=「い・のり」を形に。をキーワードにしたばかり。

う〜ん!リンクだらけでびっくりだ。


とにかく、いままで無駄なものなんて微塵もなかった!!
 自分の中からわいてくるものを心底信頼してみようって思います。
 「だから言ったでしょ!」って念押しされた気分でした。
 ちゃんと自分がキャッチすれば、体はちゃんと導いてくれている。
 そういうことも、自分の体験として伝えていけるといいな、とも思い始めています。

ひとまずここまで〜。