朝ドラと「天空の城ラピュタ」に思う

今日は葦毛湿原への遠足!快晴!暑い!
 みんな頑張って歩いたね。
 シラタマホシクサ、アザミ…たくさんかわいらしい花が咲いていて
 (実際は子どもたちが落ちないか足元ばかり見てましたけれど。汗)
 いい空気を吸わせてもらいました。
 


遠くから名前を呼んでくれたり、
 笑わせてくれたり、話しかけてくれたり
 息子がすてきな友だちに囲まれている姿が一番うれしい日でした。



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おとといは実家にいた。
 NHKの朝ドラ「花子とアン」の最終回が初見となったのだけど、
 気になることがあったので、この2日間書きたくてうずうずしていた。



初めに断わっておくとドラマ全体を見ていないし作品をどうこう言うつもりはない。
 ただ、戦時中を挟んだ舞台設定の作品を今の時代にNHKが放送すること自体が
 国民にイメージトレーニングさせているようで直感的にいやな感じをおぼえた。



花子の最後のスピーチ。
 一冊の本が心の支えになる〜うんぬんには
 なるほどそうだよな〜、自分が本を手掛けるならそんな心がけを〜と素直に思えたけれど


 災害や戦争を超えたあとは素晴らしいながめがまってる〜うんぬんには
 おや?と思う。
 それまでに描かれたらしい、不戦への願い、戦死者の母の思いなど
 平和を願う描写も全部ひっくるめてイメージトレーニングなのかと感じた。
 それでも突き進む戦争、それを超えた先には新しい何かが見いだせると。
 


スピーチだけきいてると、妙にそこのところが強調されて聞こえてきて
 いやな感じだった。



と思っているところへ、
 今日から始まったのであろう朝ドラへのバトンタッチの映像。
 主人公は初の外国人。彼女を非難する気は全くない。
 ただその設定。このタイミング。
 なぜ金髪の彼女なのか。
 欧米人と手を携える美談が国民の身近な話題となっていくのだろうか?
 欧米人に文句はない。
 でもなぜいま、この物語が国民に発信されるのか、気になった。 
 


中国や韓国の俳優さんを呼ぶことも、なにか実話を探すこともできたろうに。
 なぜアジア圏の物語じゃないのだろう。
 この流れに、気味の悪さを感じた。



こういうことが気になりすぎて、TVは見ると疲れるもんだと。
 子どものころはテレビっ子だったのにね…。。


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テレビっ子というより、映画っこだったのかな。
 テレビもバラエティ番組中心によく見たと思うけど
 とにかく暇があれば父がせっせと録画した映画を見た。



ゴジラスタートレック男はつらいよ釣りバカ日誌ジブリ映画鑑賞は
 家族で映画館、がお決まりだった。



連日の外出疲れで、日曜息子が朝から何かTVをみたいと聞かない。
 そして「いつもとちがうトトロ(ジブリ)」という珍しいリクエストで
 ラピュタを見ることになった。



子どもたちの言うことを聞くか聞かないか。
 これも決めるのは私の勘だけど、彼らにしたがった方がことがうまく運ぶ場合が多い。
 あるいはヒントがもらえる。



天空の城ラピュタ」いままでと違う視点でメッセージを受け取った。



 ・親の意思を継ぐ二人の出会いと成長の物語


 ・人が作り出した石=「科学」の力は、呪文=「言葉」で操られている


 ・最後には「木」に命が守られ、滅びの言葉でも破壊されずにすべてをはこんでいく



いままであんまり引っかからなったことがとても鮮明に前に出てきた。
 そして、


 ・科学力や武器を備えても、土から離れては生きられない。滅びるのみ。



 ムスカとシータの象徴的なやりとりは、いま現実味をもって迫ってくるメッセージだ。



そのうちやらなくなるだろう。
 社会的メッセージ性のある作品は求めなくては見られなくなる。
 ゴジラだってずっとみてないな。
 「協賛」がついてて、元気そうで楽しげなものが垂れ流される。
 「見たくないもの」は求めなくては見られなくなる。



それでも、できるだけ見たい。
 美しいもの、真実をもとめる本能を眠らせちゃもったいない。




田原市表浜アートフェス 海鳴Uminari にて。
 子どもたちは最終的に砂にまみれていました。
 帰りは急かしてしまったけれど、こういう時間大事にしたい。
 砂や土の感触を心地よく体に刷り込んでおいてほしい。
 本当の美しいものの感触を。