「包丁を持ってあるいてはいけない」に例外はない。〜堂々と理想を叫ぶ〜

先日、からだの声をきくという「たいわヒト」のよっちゃんに会ってきた。
 もやもやがたまっていた月末。
 タイミングは、ちゃんとふさわしいときにやってくる。


体の声をきくって???と、私も行くまでどんなだか分らなかったけれど
 体に手を当てたりされながら、しゃべるしゃべる私の体。
 私は「言葉を食べるバク」のように読み書きし続けることが健康法なんだって!
 「ことば」で満たされた体。
 私の真っ黒な手帳を見たことのある方はわかると思いますが、笑
 私、本当にしょうもないこともぜ〜んぶ書いてるんです。一日中。
 

ほかにも、おっしゃる通りでございます、と思わず言ってしまう自覚以上に毒舌な本音や
 悩みに対してのヒントや宿題を次々と伝えてもらったり
 何となく感じていたことがはっきり裏付けられた感じで
 なんとも不思議な時間でした。


私の生き方の核になっているのは「動物的な勘」
 日常生活のあれこれ、子育て、妊娠、出産、死期の予感などなど
 大事なことも小さなことも、最後は勘。
 いらないものはいらない。
 あやしいものはあやしい。
 自分の感覚を信じてる。


そして気になっていた、イラ立ちやすさや怒りの原因。
 その一つはこの世の中、自分の思わぬ方へ思わぬ方へ向かう社会。
 自己嫌悪も日常化していたくらい、長い間やりどころのない怒りに取りつかれていたけれど、
 それを向かわせるところがいくつかはっきりとしてきて
 冷静になれば、子どもたちにみじんも怒りを感じる要素がないと再確認できた今
 うそみたいに、穏やかです。
 彼らの行動に困らされて多少イラつくことはあるけれど発狂するような状態にはならなくなった。
 子どもたちの存在が癒しになって、それを感じとった子どもたちものびのびしている。 

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私に余裕がみられるようになった分、息子は手伝いの機会が増えた。
 きゅうりを包丁で切るというのでやらせてみる。


「包丁をもってあるいてはいけないよ」



幼い人に危険なことを伝えるとき、例外や条件付きはない。

「ほんの少しの距離だったらいい」

「近くに人がいなかったらいい」


などとは言えない。
 約束を守れる信頼に足りる彼らだとしても
 やはり幼さゆえ、それをどう解釈するかわからないからだ。
 

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7/1 亡き祖父の誕生日は、歴史に残る日になってしまった。
 集団的自衛権閣議決定


原発事故の収拾のめども立たないうちから、
 最優先事項に集団的自衛権の行使容認を掲げていた政権。
 オリンピックやW杯の裏で着々と。
 はなから国民の命など守る気のない信頼にほど遠い人たち。
 



「武器をもってあちこち行ってはいけません」


そのことに条件や例外をつけてはいけないはずだ。
 経済優先の人道をはずれた幼稚な権力に。
 公約や方向性云々ではない、権力者たちが信頼に足りるかどうかが問題だ。


 
憲法を時代に合うように改定していくことには賛成として
「(積極的に)攻めないけれど(同盟国が侵されたら)守る」という文言が加えられるなら納得できるというような論調を目にした。
 「守る」とは、同盟国が侵されたら「攻める」ということではないのか。
 攻めるとは、破壊し、人権侵害し、大量殺人するということではないのか。
 両者は条件が違うだけで、結局外国からしたら日本が「戦争する国」とみられるには変わらない。
 そして同盟国が人道的に「正義」であるとも限らない。
 同盟国どころか、自国軍さえ国民を守るとも信じがたい。
 沖縄戦で市民が恐れたのは、敵国軍ではなく日本軍だといわれていたことを思い出す。
 


他国が「話が通じない国」と信じる人もいる。
 そうかもしれない。
 相手は武力で来るかもしれない。
 それでも、世界に対して人道的にあるべき姿を毅然と示す努力が
 この国の侵しがたさと、各国で「戦争しない国」としての信頼を得られる道ではないか。
 個別的自衛権があるにせよ、やられてやり返す国と、やられてもやり返さない国どちらに世界の心は動くか。



もし攻められたら応戦せず、ひたすら逃げる。国民を逃がす。
 そういう選択はないのか?
 いじめられている子に、逃げていいと伝えるのも親の役目。
 理不尽な攻撃に応戦する必要はない。
 逃げるといえば、度々言っているが、高校生の私に生前の父が言った
 「日本が戦争する国になったら逃げなさい。」という言葉がいよいよ深刻なものになってしまった。



国民一人一人が正しい情報を受け、議論し、考えられたらすばらしい。
 けれど今の日本人のどれだけの人が可能だろうか。
 多忙に働いている人に同じく、育児中の自分も朝から晩まで動き回ってくたくたになって寝てしまう。
 仕事に追われ家事に追われている毎日のどこで
 この情報の海の中から、真なるものを得て熟考することができるだろう。
 国や金持ちやメディアの都合の良い情報を鵜呑みにして、
 さもそれが自分の意見であるかのように大上段に構え、疑いなくいる人たちがいるようで不気味だ。
 この世の中で真なるものを知っているのは、金だけなんじゃないか。



真なるものを吟味し論じる、それは学者や知識人とよばれるの仕事ではないか。
 理想を議論を通じて現実化していく、それは本当の仕事をしている政治家の仕事のはずだ。
 だとしたら、大量の情報に右往左往揺らぐ前に
 そもそも私は勘のヒトだ。母親だ。
 まず堂々と理想を叫びたい。政治に理想の圧力をかけたい。
 「命を侵すことをゆるさない。」と。
 そして、子どもたちに武器を持つとは、直接赴かなくとも戦争に加担するとはどういうことか伝えられるよう学び
 彼らの命が脅かされないよう、できることはしたい。


ずっとずっと、どこかで命が失われていることに加担しながら生きている。
 生き物や他者の命の犠牲によって生活してる。
 自分の発言と現実の生活の矛盾にも苦しい思いがある。


しかしやっぱり、それで発言を遠慮していてはいけないのだと少し吹っ切れた。
 これまで子どもたちにどれだけ理不尽に怒りを浴びせてしまっただろう。
 子どもたちの反応は速い。
 今私が変われば、もういままでのことはなかったかのように笑顔に満ちる。
 落ち込んではいられない。
 渦巻く怒りはきちんと向かうべき方へ発散しよう。
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長野県上田市の戦没画学生の慰霊美術館である「無言館」館主
  窪島誠一郎氏の
 「約束」無言館への坂をのぼって

  という絵本を借りて読んだ。
  あとがきにはこの本を読んでくれた皆さんに約束してもらいたいと、こうある。


「二度と戦争を起こさないこと」


「自分の生命、他者の生命、生命あるすべてのものを大切にして生きてゆくこと」


「画学生さんが最後まで絵筆をはなさなかったのと同じように、心から愛するものをもつこと」


「いつかかならず、無言館を訪れてくれること」


このタイミングで出会った本、この約束に即答できず苦しい思いを抱いている。
 これから何ができるか考えている。