人を動かすときは、まず抱く〜命抱く性

寝るつもりが、目にしたニュースや今日の出来事がつながって書かずにはいられなくなった。
 

  渋谷駅での少女への足蹴り動画
  子どもを呼ぶのに髪を引っ張る父親


心がざわつくけれどはっきりとは言葉にしがたい。
 けれどちょっとがんばってみよう。
 書き始めたらタイトルを手が勝手に打ち込んでいた。
 「人を動かすときは、まず抱く」


 もやもやしながらもなんの解決策になるかしらないけど
 これが大事なことに思えて書いておくことにした。



まず、動画。SNSで目にした。
 寄せられたコメントをみていると動画を見られないという人もいたけれど、
 私は何度も見た。
 それは私の姿だったから。
 私は足蹴りはしない。
 でも怒鳴るときには子どもに同じくらいの衝撃や悲しみや混乱を与えていると思う。
 まだ上の子が小さいころに住んでいたところの近所から聞こえてくる怒鳴り声や物音にびっくりして虐待じゃないか、とどぎまぎしつつ
 でも普段はふつうに挨拶や会話もしてた。
 子どもたちの成長に伴っていろんな場面を経験していく中で
 自分を自分でコントロールできなくなることが日常化していく。
 人の目のあるところに出て、正気に戻ろうとするけれど
 本当に深刻だったときは、いくら外に出てもいら立ちや無力感が抑えられない。



通報するぞ、動画に取ったぞ。
 と言えるチャンスがあるとき
 

どうしたの?大丈夫?
   
と言ってみたらどうだろう。と思う。
 話ができる、かもしれない。
 わっと泣けるかもしれない。…かもしれない、だけど。


前者では、悪いのは自分や思い通りにならないこの子だとますます追い詰められはしないだろうか。



今日雨上がり、久しぶりに近くの室内遊園にいった。
 休日でにぎわってお父さんの姿も多かった。
 ほんの一瞬だけど目の前の光景にあれっと思う。


ほんの2,3歩分子どもを移動させるのに髪の毛をひっぱってる。
 実は先日我が家でも、夫が大反省しておりましたが息子の腕をひいたところ骨をはずしてしまった。
 他の人の経験では子どもの腕をひいて目的の場所に連れて行った時の子どもの記憶は「手をひかれた強さ」であって
 その移動の意味や必要性ではなかったというようなことがあった。



子どもを移動させる最終手段はろっ骨あたりや腰をもって抱くことだと思う。
 伝えても理解を得られず、あるいは疲れすぎたりぐずったり…
 でもどうしても動いてほしいときは
 低学年くらいまでならどんなに重くなっても、おんぶでもなんでも
 ちゃんと体幹を支えながら移動させてあげることだ。

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人の心を動かすのも、まずその人自身を抱きしめることが大事なのではないか。
 人は急には変わらない。
 他人どころか、まして自分さえ心動かして変わることは難しい。
 でも、まず抱きしめられたら、自分で次の一歩をどちらに踏み出すか考えられるかもしれない。

今日、私はとても穏やかだった。
 午前中、娘の昼寝前までは子ども2人家にいてぐずぐずとどうなるかと思って発狂モードだったけれど
 その後無事昼寝をしてくれたら、息子と久しぶりに水入らず
 積木、お馬、手遊び、こしょぐりゴロゴロふれあいタイム、お膝でごはん
 たっぷり触ったら、私も息子もほぐれて優しい気持ちであとの半日過ごせた。



息子はごはんを食べさせるなど妹の世話をやさしくし
 (いつもは妹に世話焼かれてる笑)
 買い物の荷物をすすんでもってくれ
 不意に「お母さん、また生む?」「弟や妹たくさんほしい」「お父さん、おかあさんと(妹の名)大好き」といい
 遠慮がちでなく甘えに来て
 朝からちょっと疲れているな〜と思った割に、自己主張はするけれどぐずぐずしつこくはならずよく聞き分け



私も体力的にも限界でぐだぐだになりがちな就寝時まで
 好条件が重なったことも手伝って
 今日はやさしいまなざしで息子をみられた。
 その分娘は疲れぎみだったり、多少ぐずぐずしてたけど
 今日しっかり息子を抱けたな〜、という自信や充実感のある一日になった。



週末夫がいると、本人の希望もあって息子を外に連れ出してもらいがちだったけど、
 やっぱり息子と私だけの時間を作るのも大事だって強く思った。
 あぁ娘生む前って、息子ももう少し幼い分それなりにイライラもしたけど
 いまよりちゃんと向き合って穏やかに過ごしてたかも〜。
 という感じ。


親子間の悪循環って抜け出すタイミングが「ここ」とはない。
 公共の宣伝文句で癪だけど、笑
 まず抱きしめるって、頭じゃなくって体がほぐれて双方が満たされる具体的で手っ取り早い方法だなって。



育児は頭じゃなくて、体がしてる。
 勘でしてる。血でしてる。


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 議会で女性議員に対するヤジ というニュース。



かつて小学生ながらにしょうもない「ヤジ」がとぶ低レベルな国会に、これが国の最高機関かとうんざりしていたけれど
 この低レベルどころか無責任かつ暴力的な言動には本当に言葉がない。
 


女性が(男性も)体の声を聴いて生きることを誰に教えてもらっただろう。
 体や本能を置き去りにしてでも、目の前のやるべきことをこなさなければならないと刷り込んできたのはだれか。 
 性、結婚、妊娠、出産、育児…「デリケートな話題」におしこめてしまったのは?
 生活のベースとなる就業状況、経済状況へのアプローチは途上もいいとこ。
 国に都合の悪いことに本気で取り組むはずがない。
 「女性の活用」などちゃんちゃらおかしい。
 「活用」されるための存在ではない。
 女をなんだと思っているのだ。
 働くか働かないか、産むか産まないか、産めるか産めないか
 人の半数を占める、命ある性に対する関心はこの程度なのか。
 個人個人が抱える悩みや葛藤なんて、想像どころか、あるとも思っていないのではないか。



そういえば、50代男性に「少子化対策や年金のために子どもをどんどんうんでくれ」と冗談めかして言われたことがある。
 だれがそんなもののために、命をかけるのか。
 大事に大事にはぐくんだ命を、そんなチンケなものと並べられて不快極まりなかった。
 今生きるものの命は、常に次世代のために、あるいはそのずっと先に続いてほしい未来のためにあるはずだ。
 そういうダイナミックな営みがどうしてこうも不自由に感じられるのか。
 あ〜だんだん腹が立ってきてよくない。
 落ち着け私。



命を尊重しない社会に女を引きづり出すな。
 女は命抱く性だと。
 そして男は命つなぐ性だと。
 信じたいのだ。
 そしてその双方が尊重しあう姿を子どもたちに示すべきじゃないか。