家族の接点
先月の父の日、私たちといれかわりに実家に帰ってきた兄は
映画を見、本屋でマンガをシリーズ買いし、加えて「PLUTO」の最終章と特別付録を買い、
おもむろにそれを父の写真のそばに置いて京都に戻っていったらしい。
いかにも兄らしいと思った。
父が生きていたら同じように買って読むだろう。
兄は私よりマメに、控え目にさりげなく愛情表現をする。
兄も父や母や家族が残した家を大好きなことを私は知っている。同じことを大事にできる人がいてうれしいと思う。
立て続けに身内や知人の死が重なった時期があるからか、やや心配症の気があるが、それもむしろほほえましい。
元塾の一室である我が家の図書館は最も大事な財産である。
我が家の必読書は、手塚治虫のブラックジャックから始まり、ヤワラ、風の谷のナウシカ、らんま、むさしの剣、ゆうはくなどの漫画と
小説「出家とその弟子」、辞書、児童書の長編「海底20万海里」や「ピノキオ」(兄は読破したが私は断念)、雑誌「たくさんのふしぎ」「世界」(現在も定期で購読中)あたり。
(その他個人的には動物のお医者さん、うしおととら(これはごく最近)が定番の読み物。)
今、兄とほとんどコミュニケーションはとらないが、こうした漫画や本が(そして一緒に習った剣道も)家族の接点なのだとふと了解した。
母は最近日本の女性史学の創設者である高群逸枝さんの本を読んでおり、薦められている。
「かつて女性は太陽だった」という言葉に象徴される原始女性像から著作当時までの女性の社会的な立場などを丹念に書かれたものらしい。
一昨日帰った時もそんな話や現在の子育てについてなどを話し合い大いに刺激を受ける。
かと思うと、母は、そんな話をしている最中に、突然私のショートボブにした姿がかわいいと笑う。
おろしていた長い髪が見えなくなって一瞬ショートボブの私になったらしい。
いやいや、うれしいですけど。じゃ、今度はそれくらいに切ろうかな。なんて。
いくつになっても、どんなことにせよ、親にほめられるのはうれしいものです。
家族の接点の原点は月並みだけどやっぱり愛着。
自尊心(あるいは欲求)を満たしてくれ、自信をもたせてくれる、それに依存し満足し笑う。それを見て可愛く思う。
その繰り返しによってはぐくまれる愛着関係。
どちらかが死してもなおそれは生きる者に残る。
家族は家族たり続けるんだと思う。