内なる母と祖父の記憶

今日は講座は休みで、体の疲れなどが出たようで爆睡してました。
 無理せず。


保育士養成講座3日を終え、先生それぞれに興味深い視点や現状を感じられる話があり
 座学・独学の発展の場として有効だ。
 モチベーションも上がる。
 実際はやってみなけりゃわからないし、ひとつひとつの判断や関わり方もまさに個別で状況に応じてということだろうが、
 いまはその方向性をすりこんでいる感じ。
 体が自然と動くようになるには、経験をつまないと無理というもの。


まずは我が子が授かるのを待つこのごろです。

              • -

講座で印象的だったことを少し書いておこうと思う。


マーラーの分離個体化理論の解説の中で、
 子どもはやがて目の前に「安全基地」としての母(的存在)がいなくても、自分の内にその母のイメージをもつことで安心感を持ち
 より行動範囲を広げていけるようになるというような内容があった。
 そしてその後も、母と一生寄り添って生きていくのだ、と。


母と一生生きていく。


おじいちゃんの記憶が結びついた。
 私がもの心ついた時には既に糖尿病で1日おきの通院を欠かせず、
 まじめな性格から我が家のタイムキーパー的な規則正しい生活をしていた。
 晩年、気分の落ち込みが見られるようになり、死に対しての恐怖があらわになるようになった。
 普段寡黙な祖父はある日の就寝時


「おかぁちゃん!!!!」


と叫んだ。
 90歳になる、とりみだすことなど一度もなかったあのおじいちゃんが大声で必死に叫んだのだ。
 同じフロアに私の部屋があり、その声がはっきり聞こえた。
 私はどうしていいかわからず、わなわなと震え寝られぬ夜になった。
 そばに行き手をにぎればよかったかなど、あとから思い出しては無意味に後悔したりする。


祖父の生育歴や祖祖母のことはあまり知らないが(家と縁を切った末っ子長男というくらいな情報)
 ともあれ本当にせっぱつまったとき、人は「おかあちゃん」と叫ぶのかと
 大きなショックとともに納得した。


7/1は祖父の誕生日だった。
 祖父とも話足りなかったと思う。
 荒川家の歴史と発祥の地(少なくとも祖父は信じていた)吉良へのこだわり。
 戦時期に「お国のために死んでこい」といって送り出されたこと。
 父と兄の名はもともと祖父に由来の名であること。
 動植物をこよなく愛し世話をする姿。
 上品な食し方。
 「人事を尽くして天命を待て」「裏切るな」などの言葉と確固たる連帯責任をもって父たち3兄弟を育てたこと。
 最終的に根を下ろした地域に老人会を立ち上げたこと。


知ってることも直接聞いたことも少ないけど、漠然と尊敬してたと思う。
 身近な家族ほど、話せるうちに話したいものだ。
 平和な家族も努力次第。人事を尽くしたい。