脳死について

憤りを隠せないので、感情的ではあるが書くことにする。
 読む人によってはさらなる憤りを生むかもしれないがご容赦いただきたい。
 自分の思いを記録する。
 脳死移植に否定的な考えと国(衆議院)の浅はかさに対しての怒り。



脳死移植は当然、第三者の死があってなりたつもの。
 その第三者のまわり人の悲しみも社会も背負う。
 それは国内の誰かかもしれないし、海外の誰かかもしれない。
 お金がかかるのも時間がかかるのも額は違えど変わらない。
 国内で提供者が増えたとしても恩恵をあずかれる人は限られるに違いない。
 成功の確率も、移植を受ける側・提供する側双方のその後の経過も人生も
 誰にも保証できない。
 ただ確実に年月の中で双方とも死ぬ。
 他のすべての人がそうであるように、必ず死ぬのだ。
 もちろん私も。
  
 

個人的に脳死移植自体大いに抵抗がある。
 自分は望まない。
 明日あるいは数年後死ぬことになっても、静かに受け入れようと思う。
 短くても長くても、それぞれの尊重されるべき生き様がある。
 あるいはA案等が通り、わが子の脳死判定なり臓器提供について問われたとしても、断固拒否する。
 これは私の選択。


他の人の選択は違うかもしれない。それはそれでよい。
 否定はしない。
 いかなる状況においても死のそばには悲しみや悩みがうずまく。
 個人の選択と決断は尊重する。



何を人の死とするか、
 本人や家族やその人をとりまく人の思いによってしか尊重しえないきわめて倫理的で繊細な領域を、
 国が早々に介入し、プレッシャーを与え、定義するなどおこがましい。

腹立たしい。

            • -


まったく論点からはずれるが
 とても信心深かった母方の祖母の寝室にはたくさんの教訓が貼られていて、その一つ。
 こんな形でアップすることになるとは思わなかったが。

吾唯足知。と近いのだろうか?ちがう?
 「死ぬ日月さえも丁度よい」
 父が亡くなって数年後、祖母が亡くなって部屋でこれを読んだとき
 言葉にならない感覚でどこか慰められた。
 父が幸せだったかどうか、真意はわかりようがない。
 でもまあ、よかったんじゃない?そういう人生だったんだって、ふんぎりがついた気がする。


臓器が生きていたら違う感覚があるのかもしれない。
 移植先の方が亡くなるとき、また死ぬと感じるかもしれない。
 私にはそういう感覚は不要だ。
 いっぱいいっぱいだ。
 どちらにせよ父はまだ記憶に生きている。
 それでいいではないかと思う。。
 

追い込まれた状況で尊重すべき問題は死期を伸ばすこと以上に、
 1日1日が幸せかどうかということではないか。