孤独と浄化、一区切り〜女性性の解放の時代へ〜
明日あさって帰省します。
昨日も夜更かしで、運転もあって、日曜日には演劇WSの参加もあって寝ようと思いつつですが
ご心配をおかけしている方もあり、報告を兼ねて書いてみることにします。
最近夫は自転車に夢中で、どこに行こうとか、遠出するためのアイテム探しとか、仲間との約束にうきうき。
しかし先日転んで意外にやっかいなけがをしました。
破傷風菌がどうのこうので注射も打ったようです。
大人になって、大きなけがって生業にもよるけれど少なくとも自分にはあんまりない。
大きな病気や、子どもを授かったり産んだり、事故にあったり
命をリアルに意識するチャンスってどれくらいあるのだろう。
もっとちゃんと、いのちの危うさを感じたらいい。鈍感なんだ。生きてるってことに。
「自殺願望を飼い馴らす」
ここ数日めぐっていた言葉。
さなぎから出てきたのは、死をまとった蝶。
自分の核となる死がでてきた。まだうすぼんやりとしか輪郭がないけれど確かにあるらしい。
生きているのが恥ずかしくて死にたいと?
そういえば母も自殺願望を持ち続けていた時期があったという話は時々聞いていた。
そういう自分と同じ思いをさせたくなくて、しばらく子どもを産む気になれなかったとも。
でも、だからこそ、生きることにひたむきで強くあこがれがあるのかもしれない。
それがむしろ私のエネルギーになっているのかもしれない。
高校の時両親のすすめで映画「今を生きる」をみて自我に目覚めた。
中学の頃「もののけ姫」のコピー「生きろ。」に魅かれていた。
この20日ほどの間に自分の中の未解決の案件についてのあれこれが押し寄せてきて
そのおかげで気づけたこともあり、自分の身に起きたことの解釈やおしこめた感情がなんだったか理解できた気がした。
ここ数年のうちで一番、こまめに泣いた。
ニュースを目にしても、悲しくて悔しくて、子どもたちにどうこの世界を手渡せばいいかわからなくて泣いた。
自分に泣くことをやっと許したような気持ち。
娘はずっと、絵本や自分で作るお話や、目にする情景の中で「泣いてる」ことにとても敏感で
元気な彼女自身が心で泣いてる何かがあるのか
あるいは、私に教えてくれているのかとも思う。
彼女の一人芝居で「たすけて〜!!」とか「いや!」「やめて!」とコミカルタッチながら私が言えない言葉が多く登場するのも
自分へのメッセージのように聞こえてきた。
正直、苦しくて、でも一人になりたくて、だれにも会いたくない日日を過ごす中
あちらこちら助け舟をくださる方があらわれたこと、驚きとともに、本当に救われました。
ありがとう。
そして自覚以上に、自分で自分を孤独にしながら生きてきたなあと、遅ればせながら実感しています。
被害者意識もこの辺で。ゆるして手放す準備が整ってきた感じがある。もう、愛そう。
頼っていいと言ってくれる人がいる、助けてくれる人がいる、応援してくれる人がいる、気にかけてくれる人がいる。
人を信頼できるまで時間がかかるかもしれないけれど、心強さを得た大きな体験。
そして今日やっと、人に会える気持ちになってきました。
鎖国をひとまずおえて、自分をよいしょっと抱っこして地面におろしなおす。
あぁ、浄化だったのかなぁ。心の膿をだせたかなぁ。と思いました。
実は心だけじゃなくて、体も浄化中、生理でした。
先月とは全然違ったので、やはり前回は超初期の流産で、純粋な生理再開は今回だったかなと思います。
心身のすっきり感、浄化のリンクの妙を実感して、心底、からだってすごいなぁと感じずにいられない。
思わず、人体解剖図鑑を手に取ってまじまじと自然のなせる業に感心した。
そして、浄化の感覚ってお産と同じだよなってもう一度思った。
女は何度でも生まれ変わることができる。
さらにお産と同じく、自分の体とこれでもかって対話して、意識して過ごすのが精いっぱいで、
これで仕事ってあり得んでしょ。って痛感した。
ぼ〜っとしちゃうし。やすも〜ぜ。休んで当然でしょ。お産だもん。
それで回らない現場があるなら、その現場がおかしいんだ。
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ついでに勢いだけで言ってしまえば、国民全体で、本当にやりたい仕事じゃないなら全部一斉にボイコットすればいい。
心ある人はたくさんいる。
でもこの国の絶望っていうのもある。ぐちゃぐちゃになってしまえ。
死んだ国が、生きてマスみたいな顔してるから、お偉いさんが居眠りしていられるんだ。
お金が役に立たずに食べ物もいきわたらないくらいぐちゃぐちゃにして
だれのために働くか、誰と生きたいか、そしてぐちゃぐちゃになっても生活できる方法って何か。
ってみんなで考えたらいい。
余談でした。
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三砂ちづるさんが「月の家」について書いていた。
「穢れ」という概念で、実は女性の体がいたわられ守られていたのではということも紹介されている。
記憶が確かじゃないから細かい部分は違うかもしれないけれど、
お産や生理の間、女だけですごす小屋があって、そこで家族と離れ、体を休めながら、いろんな知恵を受け継ぐ場所がかつてあったのだと。
こういう時代の「穢れ」は、単なる男尊女卑的なあるいは女性の体の変化が汚らわしいとされてきたのではなく
むしろ女性性がそのままに大切にされていたともいえる。
「女性性 解放戦線」
とやらも、頭に浮かんでた言葉。
浮かんじゃった言葉だから、以下後付で本当に感覚でしかないんだけど、、
これから必要なのは上っ面の「女性の社会進出」なんかじゃなくて、本来の体の持つ性の力に目覚めること。
女が女じゃなくなるとき、種も滅びる。
時代が変わっていく。
子どもたち、娘たちに渡す社会は女性性が解放され、それが大切にされる社会。
先日たまたま家で手にした谷川俊太郎の「アルファベット講」で、黒人の美しさ、たくましさ、圧倒的生命力への恐れからの差別や弾圧について書いてある部分を目にした。
命を生み出す、選ぶ権利のある、女性性が封印されたことと重なった。
最近の発見では、私自身とその鏡である夫の中にも、女性の性欲への否定、男尊女卑観があったことにお互い驚いた。
ちょうど私が卒論の時に流行ってた「女は産む機械」みらいな薄っぺらな性認識じゃない。
それは、男性の中にある女性性も含んだものだと思う。この辺私は詳しくは言えないけれど。
アジアの遺跡に性交の絵が彫られてたりもする、性のエネルギーって命の根幹。
性の理解と尊重によって、社会の成熟度をはかるなら、その面でも日本は衰退しきりだと思う。
う〜ん、勢いで書きすぎた点多々。
とにかく、なんでもいいけど、笑おうよ。って
やっといえる心境になってきたかな。
孤独な私、泣きたい私、いてもいいよ。ありがとう。
高校の部活の文集で、「笑いは世界を救う」っておまじないのように書いてた時期があった。
それが私の本質。
今日教えてもらった。
あーでもこーでも…やること、したいことの体裁にこだわって悶々してた自分。
「大人もこどもも、遠くの人も近くの人も、向き合った人に笑顔になってほしい」
書くのも、サロン月草も、ハルシオン祭も、ハルシオン屯も、カタリナも、読み語りも…
何でもよかったんだ。私のしてること。
繰り返してるはずのことを、まだまだ見失いがちでブレブレな私だけど。
シンプルに、今したいと思うことをしよう。
静かな革命、静かな爆弾。
では、ちょっくら実家で充電してきます。