絶滅危惧種として、生きる覚悟〜ハルシオン祭の祈り〜

ダーク桂です。


自分の中ではっきりしたかったことがもう一つある。
 自分が自由になっていくほど、それが脅かされることに激しい怒りが伴う。
 日本や世界のどうしようもない動きに巻き込まれていくこと、
 そこに直接切り込めない、行動できない自分へのいら立ち
 マイノリティの思い通りに流れない世の中への怒りと、根深い絶望感がずっとある。
 


右ひざの冷たさは絶望感の表れだと「でもこれからそんなに悪くないよ」と去年私の体が教えてくれた。
 自分が何に怒っているか知っておいた方がいいとも。
 今になって、じわじわキテル。
 各方面への怒りが少しずつ解放されていってる。第一歩。



こわいことをこわいといっていい。もっと言っていい。
 死に対する恐れも、殺し殺されることの恐れも、家族を失うかもしれないという恐れも
 故郷を失うかもしれない恐れも、いつ襲われるかわからない不安も
 性暴力も、家庭の不和も。



こわいからいやだ。って言ったらいい。



タブーが多すぎる。
 タブーにされて公に議論されないことで、本質と離れたところに現れたりする。
 タブーってやつをなくしたい。
 こわいことを堂々とこわいって言えることが大事だ。
  



戦場に自分がいることを想像する。
 沖縄もしかり。
 知らない地の紛争に日本が加担している。
 安いものを見ると、その分人が死んでると思ったりする。
 体が生きてるか死んでるかというのもはもちろんだけど、
 人として生きてるっていう当たり前の権利。
 だれかのそれを踏みにじりながら、今の自分があるなら、そんな自分はいらない。



そんな現在進行形で数知れない死の上に自分の生活があると思ったら、すぐにでも死んでしまいたくなる。
 今日も誰かが死んでいる。
 体が硬くなる。心臓がきりきりする。
 自分が死なないために、距離を置いている。それ自体にも罪悪感。
 たくさんの矛盾や不条理やゆがみを抱えて自殺する人たち。
 まっとうに世の中のそれを感じてしまったら、自殺する方が自然だろうとも思える。
 一時は、私もその一人だった。消えてしまいたかった。 
 いつでも死ぬつもり、明日死んでも、と思い続けてる私がいる。
 だけど、案外死なない。


5/21 ひそかに ハルシオン屯プロジェクト始動していました。
   市内の助産師さん、CAP(子どもへの暴力防止人権教育プログラム)の緑さん、short stay baby のお話のたけちゃんと私の
   後付するのであれば「いのちに寄り添い守りたい」首脳会議でした。



 別件だけど、サロン月草も、イベントもいろいろ、レポ書けなくなっていて、だって、その場にいないあなたに何が伝わるの?
 っていう感じで、その場にいた人が感じるものがあれば、それでいいです。
 それがライブだし、今ここを一緒にいきる。ってことだしょ。
 どうしても自分が残しておきたいものがなければ
 あるいは伝えたいことがなければいいか。って思ってます。
 あと、単純に今のキャパと優先順位的にできたらね。って感じ。



で、この首脳会議中(レポね、書きたい感じはあります。)わたしが受け取ったことの一つは
 

 一人では抱えられない。 っていうこと。


 そりゃソーダ
 市内の赤ちゃん、子どもたち、家庭、
 被災地、戦地、汚染地
 ブラック企業、レイプ
 植民地日本、アジア、世界
 どんだけだよ。



一人一人では限界がある。
 ただ「何かしたい」という心をなえさせないようにしたい。応援したい。
 ハルシオンの原点である、異分野の人とのアツイ交流の場づくり。
 久しぶりに純粋な形でやってみて、自分の中でまた少しおちる部分がありました。



 今、自分を生きると決める。覚悟する。




 無邪気な私、自分らしい私を受け入れる。できるかな? 
 こんな私だから、私のための きぼう をもちたい。
 自分を生きる自分自身が、きぼう そのものでありたい。
 


最近「絶滅危惧種」って頭の中で繰り返してる。
 日本はもう、子どもも産めずに育てられずに守る気もなくて
 土地も汚して奪われていくことに鈍感で
 抱えきれない苦しみを凝縮させてみんなの代わりに死んでいくたくさんの人たちがいる。



自分を生きる子どもたちを見てたらわかる。
 お金もおそれもステータスも脅しも、どんなプレッシャーもなく喜びに生きる彼らは
 教えなければ、人を殺しはしない。
 食べ物を喜んで分け与えてくれる。
 人が喜ぶことを、笑うことを一生懸命にする。



泣けてきた。




世界がそこにいる人の心の鏡だとするならば、一人でも多くの人が自分自身を生きられたらいいと思う。

 

 生きる覚悟を決めよう。
 生きるなら、笑おう。
 そして周りの人にも生きていてほしい。
 自分を生きて、笑ってほしい。




人に番号がふられていく
 音楽やダンスも表現も規制がかかっていく
 知らぬ間に武器が完備されて、たくさんのお金が消えていく。
 そんな中にあって
 5/5ハルシオン祭はたぶん、実験だったのだと思う。
 これから私に何ができるか、これからまた試していくんだと思う。